昭和51年10月15日 前夜祭
いよいよ教祖大祭を明日に迎えまして、ただ今その前夜のお祭を滞りなく奉仕させて頂きました。前夜祭というのはいよいよのお祭、いよいよの明日に備えてのいわば確かめてみると言う事でございます。いよいよわざわざ怠りなしと思うておりますけども、どこに手抜かりがあるやら分かりません。もう全ての点に例えばお装束一つでも、一辺出してみて、さぁ明日ておざおせんで済むようにというのであります。確かめると言う事は、これは私共が御大祭を仕えるにあたってでもそうでございますけれども。
やはり神様が私共に、おかげを下さると言う事であっても、やはり同じ事であります。神様が確かめた上にも確かめて、そして間違いないというところに頂くおかげでなからなければ、本当のおかげは頂かれません。今朝からたまたま昨日、宮崎から丁度先月の九月の一日に、ご参拝の初めておかげを頂いて、そしておかげを受けておる事のお礼のお届けが、昨日二人の方からお届けがございました。一人はやはり自動車のセールスをなさる方であります。
帰らして頂いたら電話がじゃんじゃん掛かって来た。もう最近はひとつもそれが売れ行きがあのうそれが止まっておる。帰ってから電話が掛かってくる受話器をとると、「明日車をもらいたいか、来てくれ」ということであった。「はぁもう合楽の神様ちゃ違いなさる」という訳です。初めての御信心ですからまぁそのぐらいの事だったろう。まぁその喜びを、その時直ぐ電話でお礼のお届けがございましたが、それが四十五日間毎日続いておると言う事でございます。
四十五日経ってみて本当におかげを受けておるということに改めてお礼を申し上げ、また一日も早うお引き寄せを頂きたいというのであります。一つは子供さんの病気の事でございましたが、おかげを頂いて本当にまぁそれこそ奇跡的なおかげを頂いて、今日まで子供の上にもおかげが続いておると言う事でございます。昨日研修の時にそのことを、例えば合楽に一晩泊めてもろうてしとるのだから、やはりお礼を言うたり、まぁ少しはお世辞の言葉やらも使うでしょうけれども。
四十五日経ってからの事でございますから、おかげの確かな事をはっきり分かった。そのおかげをはっきりおかげと感じて、お礼の手紙となった。「それは四十五日分であるというところに、このお手紙の値打ちがあるね」と昨日言うたことでございました。今日も午後の奉仕の時でしたが、もう下がっとりましたら萩の内川さんが、今日で三回お礼参り、萩の旧家で大きな造り酒屋をなさっておられる。それがもう何代も続いた古いお酒屋さんだそうですが、最近もうお酒の売れ行きが第一悪くなって来た。
それから期限、金に行き詰まっている。そこで売れ行きの事やら、金銭のお繰り合わせのことやらをお願いに見えて二度お参りなった。その時もおかげを受けて三度御礼参りをして来た。それはちょうど表までだった三度目は。 もう私はその時何かたまたま表へ出る用事がありましたから、出ておりましたら「今日はお礼に出てきました」と。私も表へ出ておりましたから、そんならここでお礼を申しあげたら、こげな訳でおかげを頂きましたからというようなお参りですから。
まぁ言うなら二度半ぐらいなところでしょうね、お参りが。今日はもうそうですね、言わばまぁ半年ぶりもその上にもなりましょう、今日は本当にお礼参りをしようと思うたら、ぱったり市川さんと会うた。お導きをされた方。それで実はこうやってお礼参拝をしよる。なら私もついでにお参りしようと言うて、まぁ参って来たというのです。とにかく「信心は見易いものじゃが」と仰せられるが、そのように例えばおかげだけならば、見易う頂けれる手立ても、またそういうおかげを下さる場合もある。
確かめもなんもなさらんで、神様が願えば願い以上のおかげを下さってあるという、それを最近合楽では非常に感じます。けどもそれでは言わばあの世に持って行くものにもならなければ、光にもならない訳であります。今日これも午後の奉仕をさして頂いております時に、福岡からお参りがありました。もう三、四ヶ月も前になりましょうか、大きな商売をなさっておられる。支配人の人が二千万円からの行方不明のお金を、言わばますぼりをしておったということが発覚した。
それでいろいろにまぁ折れて出てくるならば、半分なら半分ででもこらえてやろうというところだったけれども、白を切るというでしょうかね。裁判にするならしてもよいといったような態度を取られる。円満におかげを頂くならと言う事でございましたけれども、とうとうお願いをして裁判になりました。今日お礼に出て見えたのは、それが弁護士を通じて、「和解をしてくれ」と言う事であった。ところが御神意を頂いたら神様が頑として、和解はいけんと神様から頂いた。
そしたらその方が言われるには「そうだろうと思います、神様が言う事聞きなさらんはずと思います」と。弁護士はそう言うておりますけれども、本人が一つも改心の情がない。「やっぱそうでしょう」という訳でございます。そしてなら絶対和解しないというのではない、言うならば改心の情が見えたら和解をする。言うならば確かめてと言う事でございます。おかげを下さるに致しましても、私共が言うならお祭をこうして明日いよいよ教祖大祭を仕えると言う事につきましても。
これは私どもとして明日の御大祭にお粗末御無礼のないように、やはり今日はその確かめておかなければなりません。神様がおかげを下さると言うても、やはり神様が確かめた上にも確かめなさらなければ、おかげは下さらないと言う事ですから、いよいよ間違いのない受けものを頂くと言う事が信心だと言う事になります。今朝の御祈念の後に福岡の高橋さんのお届けでございましたが、今度念願かなって夫婦でこの秋の教祖御大祭を拝まして頂く事が出来た。家内はしげしげとお参りはしてまいりません。
高橋さんの方は、皆さんもご承知のように、福岡からそれこそ毎日日参を欠いた事がないと言う様に、熱心な信心をされますけれども、いろいろお知らせを頂くのは家内です。これは主人の信心でしょうね。もうそれはもうはっきり頂くですいつも。今度も御本部参拝で、いろいろとそのお知らせを頂いた事を、高橋さんにこういうお知らせを頂いたから、お届けをしてくれと言う事でございました。それにねもうプラスチックの中が見えるガラスのような容器にね、それこそポッポするようなご飯が一杯入れてある。
もうおかげがそこにみえているて、ままになると言う事が、そこに見えているんだということ。それでもこちらに受けものがないなら、まだやられんと神様が、神様の方が頑張ってござるという感じ。洗面所に行って洗面に行ったところが、もうとにかく水道の水が出っぱなしになって、どんどん水がこぼれておるところを頂いた。神様はそれこそ降るように、それこそ水道の蛇口をひねっておる時のように、神様がおかげを下さってあるんですけれども。
それを容器が小さい受けものが小さければ、みんなそれが疎漏になってしまう。お粗末になってしまう。そう言う事ではできない。もう沢山のえびの天ぷらを頂かれた。もう本当にえびの天ぷらとは、最高の修行が沢山出来たと言う事でありましょう。次には長い牛蒡のお知らせを頂いた。これもいよいよお役に立つ信心、牛蒡というのはお惣菜にいたしましても良し、仏事とかお祝い事に必ず牛蒡という野菜は使います。どう言う事にでもお使い頂けれる、言わば実力もだんだん出来てきたというのであります。
えびの天ぷらといい、その牛蒡のお知らせといい、ご飯はもうそこにままになる、すぐそこにあるのだもう見えているんだ透き通って見えておる。ところがね、まぁだ受け物がないと。それは「どういうことかと言うと、今朝の御理解をもって申しますならば、「天地自然の働きと調和する生き方」というものを、まだ身に付けていないというのです。 天地自然のはたらきと私共の心とが一つになる。言うならば和賀心というものが信心によって生まれてくる。何がなしかの喜びが生まれて来る。
その喜びが育って行くという、又育てて行くと言う事が信心であるのですけれども、その喜びが頂けたり消えたり、頂けたり消えたりしておる訳です。「心行とはその和らぎ喜ぶ心を維持する為の行を心行と言う」のだと今日は頂きました。心行というのはね頂いておる喜びを崩さない壊さない、その為に心にいつも心行をしておけとこう言うのです。言うならば成り行きを大事にすると言う事でございますけれども、最近の御理解の言葉を借りると「寛」の字であります。寛大の寛です。ウ冠に草冠を書いて見ると。
全ての事どう言う事であっても、それを神の働きと見ると言う事。ウ冠と言う事は宇宙の宇であります。草冠というのは自然と言う事であります。自然の天地の親神様の働きをそこに見る。自分の上に例えば難儀な問題が起きておっても、それを神の働きと見る。そこには腹を立てたり悔やんだり心配したりする必要がない事になる。高橋さん夫婦に神様が求めておられるのは、昨日も帰らせて頂いたらもう危ない所で、失敗する所でしたけれどもまおかげを頂いて、本当にそれがお試しだったと言う事が分かりました。
と言った様な所を今通っておる訳です。もう即それを神の働きと分かっておるけれども、それを見れない所に、不安であったりイライラしたり腹が立ったりする訳です。不安になる様な事であっても、それが心配になる様な事であっても、それを神の働きと見るという心が出来た時に、広い大きな心が出来た事になる訳です。それを神様は確かめた上にも確かめておかげを頂かす。そして結局どういうことかと言うと、「高橋さんどういう例えばおかげを頂きましても。
おかげを落とすような事は致しませんとか、お役に立ちたいという一念が、夫婦の心の中に燃え盛って来ると言う事が、神様が言わばそこんところを確かめておられるのではないだろうか」と言うて、今朝からも申しました事でした。いよいよ高橋言わば三福寿司の全店の上に、御比礼を神様が下さって、それこそまた売れたまた売れたと言う様なおかげになって来た時に、それこそ金玉の宿替えをせんだけのものが、出来とかなければいけないと言う事です。
そりゃ人間ちゅうのはまた売れたまた売れたというと、すぐ金玉が宿替えをする。そういう事は決してないと言う事を、神様が確かめた上にも確かめられて、初めておかげを下さる。もうおかげはそこに見えておるんだと。随分長い間修行をしたと言う事を、沢山えびの天ぷらがそこにあると言う事。大きな牛蒡が沢山そこにあると言う事。だからここに、例えば神様が水道の蛇口をひねったように、お恵みの水がジャージャー流れても、それを受け止めれるだけの、それを受けて流せるだけの信心が出来る。
その信心を要約いたしますと天地自然の働き、それをそのまま私どもの心にキャッチ出来る、言うならばその心と一つになれる。それを神の働きと見るという頂き方が出来る時にです、神様はおかげを下さるというのです。ここのところも、まぁなかなか確かだと言う事は難しいです。けどもその思い込みがいるんだと言う事です。どう言う事であっても、それはあなたに神様が求め給う神様の働きだと見るのです。ウ冠宇宙の宇ですよ。草冠というのは自然。
自然に起きてくる神様のその働きというものを、それを神の働きと見るというのです。そこに寛の字できる、広い心が出来る、腹が立つような事であっても腹が立たん。困ったと言う事はいらん。そういう寛大な広い心を頂けた時に、広い大きな心の言うならば、受け物が出来た事になるのです。今日市川さん参って見えましたから、昨日もお参りになった。でその昨日お参りなってのお届けの事を、私は今日その酒屋さんに話した事でした。お宅方は長年続いておる。
古い家になればなるほど、世の為人の為にも随分なってきておろうけれども、言うならば神様のお心に叶わん事どもも、随分と多い事であっただろう。そういうお粗末御無礼が言うならば、それを仏教的に言うならば、今あなたの所で金が足りないとか、売れ行きが悪いとか言うならば、それは今罰かぶっとるのじゃという。金光教にゃ罰かぶったと言う事はないけれども、それは神愛なんだけれどもそう言う事がなからなければ、とてもあなたが合楽にお参りなさる様な事はなかろうから。
お参りになったというだけでも、その事のおかげで合楽に御神縁を頂いたと言う事になるのですから。これはやはり神愛ですけれどもね。けれども確かに大きい家であれば、古い家であればある程に、めぐりも積んできてる。だから家の中が何とはなしに明るいとか光を持った物ではなくて、大きな家であればある程に、何とはなしに薄暗い言うならば、気味が悪いようなものが、うごめいておる様な感じすらする家が、世の中にはございましょうが。昨日市川さんがねと言うて話した事でした。
昨日市川さんがお参りをされて、お届けをされますのに、「先生今度御本部参拝から帰らせて頂きましたら、あちら当りは四日の御本部参拝だったそうです。萩教会から。帰らして頂きましたら、あぁたその家の中がえらいザワザワしとる。どう言う事だろうかと思うたら、今日はどこどこの何とかという映画会社から、ここの家が丁度裏が筑後川が見えて堤防があって、まぁ景色が良いというかまぁ言うならば、どういう映画かというとその幽霊映画げな。
それがその川の土手のこうそのう何と言うですかね、茅やらなんやらあるところから幽霊が出て来るとに、ちょうど都合がよかごたるところがあそこ庭になっとるそうです。そしたらあなた家の中に入りましたら、丁度その庭の枝折り戸のところからその幽霊が入って来よるところだった。もう目が覚めてびっくりしました。夢じゃった。ちょうどもう御本部から帰って来たところから始まったと、その夢が。そして何々映画会社がそのう、まぁ怪談ものを撮る。
それがお宅の座敷からお宅の庭やら、その向こうの景色が幽霊が出るとに出よかごたるふうな感じがある。又本当にそげな風ならしいんですよ。それでこう貸してくれち言うけん、私の留守中に家内が貸してる訳、そしてちょうど帰って来た所に幽霊が枝折り戸から入って来よる所であったというのです。気色の悪かのってまぁ言うた事でした。それこそね本当に家の中に入っただけで何か心が明るくなったり、賑やぁかになる様なお家があります。もう本当に行ったなら帰るごとないごたる良いその家があります。
そういうところなら人も集まる、金も必ず集まるです。けれども何とはなしに陰惨な、何とはなしに嫌な感じの、早う帰ろうごたると言う様な、言うならばお家があります。雰囲気がその家にある訳です。身にもメグリがあるように、やはり家にもメグリがある家なんです。だから古い家とかというところには、そういう例えば雰囲気があります。よっぽどの信心をさせて頂かなければ、よっぽどの信心の光を持って中心になる人がおかげを頂かなければ、おかげが受けられないという家がある。
そういう家がです取って返るように、光の言うならば幽霊の集まりよいような感じのじゃなくて福の神様が入って来るのに来よかような感じの、お家にならせて頂かなければ、その家に栄えるようなおかげにはならないと私は思うです。いかに家繁盛子孫繁盛の道だと言うてもです、そういう家の中に雰囲気があったり、そこに有り難いとか勿体無いとか、生き生きとした信心の喜びが満ち溢れてくる家の中に。言うなら家庭が円満である。健康である。そういう私は条件が足ろうまでがです。
だから一時に分限者になるという事は出来ません。それからおかげは見易いものですから、それこそ四十五日ぶりにお礼の手紙が来ておる。たった一回しかお参りせんのにおかげはずうっと続いておると言う様なおかげを受けておるのです。今日のお酒屋さんの場合でもそうです。二回半ぐらいしか参って、今日で三回半しか参ってこない訳なんだけれども、けれども今日はやっぱり、とにかく第一銀行がお金を貸してくれる素晴らしい条件をくれるようになった。
それから今までストップしておった、今まで良いお得意さんが断りよったところが、また改めてお得意さんになって下さると言う様な開拓が出来てきた。はぁ金光様にお願いしとるけんおかげじゃろうとやっぱり思わずにはおれない。そこで今日はお礼参拝をさして頂こうと思いよったら、お導きの市川さんがちょうどパッタリ会った。それで今日はお礼参拝さして頂いたと言う事であります。だからそういうおかげに留まらずに、神様が確かめた上にも確かめて下さる事の、言うならば出来れるおかげを頂きたい。
確かめられても試されても、それに落第しないだけの信心を頂きたい。今日は私は確かめるという事、この前夜祭もやはり明日の御大祭に、お粗末やら御無礼がないように、どこに手落ちはないかと確かめる。そのためにこの前夜祭だと言う風に思います。明日きれいに結い上げれる、例えば髪を結い上げるならば、今晩は綺麗に洗って、言うならば流さして頂いて、明日は自由自在な大きな髪なら髪でも、結えれるような準備をしておくというのがこの前夜祭の意義だと思います。
心して自分の心の上にも、明日拝まして頂く明日頂く所の御大祭が、いよいよ有難い御大祭として、また御大祭を境に、昨日の御本部参拝の時に、皆さんに申しました事でしたけれども、百五十名の方達が参拝致しました。お礼参拝をして参りまして最後に帰られる時に、皆さんがいろいろお届けをされます。その中にもうそれこそ念願にしておった、夫婦での御本部参拝が出来た。もうそれが本当に有り難かった。
今朝からもお礼に出て見えましたが、「本当に帰らせて頂ましたら先生こいう不思議なおかげになっておった」というお届けがございましたが、昨日その方のお初穂にはね、夫婦揃うて御本部参拝が出来た。これは「念願成就御礼」と書いてありました。だから金光様の信心をすれば御本部参拝は、当然のこと当たり前の事として腹に決めておくと言う事は、勿論有難い事です。
だから参られるとは限りません。やはりそういう念願がやはり通わなければ、お参りが出来ません。当然参ると思うておっても、どうしてお参りが出来んようになるやら分かりません。そこで言うならば、この次の御本部参拝にも、どうぞお参りが出来ますように、しかも夫婦で、しかも親子でまたは一家中で、お参りが、その念願というものを立てて、その念願に向かっての信心修行が出来る。そこから念願が叶えられる時に、「本当に神様有難うございます」と言う事になるのです。
私共の、ら教祖大祭を仕えると言う事においてもそうなんです。半年に春秋の大祭を、半年に一回の御大祭とするならばです、半年間の御礼だからもうお参りをすれば、それで済んだというものではなくて、一つの念願が成就すると言う様なおかげになって来なければならない。ためにはやはり様々な意味においての、確かめた上にも確かめての、準備がいると言う事でございます。
どうぞ。